戸狩の歴史

戸狩に引き継がれる情熱のDNA

戸狩の歴史はいつでも情熱に支えられていました。スキー場オープンにしても、温泉を掘り当てるときも、情熱がありました。地域を活性化させる。お客さんをもてなす。その想いは今に引き継がれています。
四季を通じて行われる「花結び」や「さわごさ」「とんトレ駅伝」などのイベント。そして、それぞれの宿の心をこめたおもてなし。その全てに先人からの情熱と知恵が受け継がれています。
では戸狩の歴史をひもといていきましょう。

戸狩温泉誕生までの歩み

伝統的な冬の出稼ぎの時代もスキー民宿発祥によって解消する
1960年(昭和35年) スキー場に待望の第一リフト(全長274m)誕生する。
総建設費約350万円の内地元100万円タカラ運動具店の松本さん(東京)が250万円を出資して下さってやっと資金計画が出来たのです。民宿も1泊3食300円と採算を度外視して「いろりを囲んで素朴な農家の味」をとチラシを配り宣伝、一方保健所からは営業許可を、地方事務所からは建築基準法で改造、改善命令に苦労した。
温泉の話がチラホラ出始める
1985年(昭和60年) 観光協会の支部懇談会や各種会合の席で聞こえ始める。従って少しずつ文献にも目を向ける事も多くなってきた。弓削春穏著「飯山ものがたり」にもある通り、その昔この地方は海底にあったという。隆起して出来た山であり川東に比べて温泉の湧出は少ないと記されておりますし、また世論でも寂しかった。
1987年(昭和62年) 戸狩観光協会理事会で温泉開発が始めて議題になる。
湯滝温泉の温泉権を取得して、それを吹上までポンプアップして民宿全戸へ配湯する計画を立てる。温泉化への機運も次第に高まる。
何が何でも温泉が欲しい
1988年(昭和63年) 八木建設社長とも温泉開発問題について研究する。
飯山市とも湯滝温泉の温泉権を取得できないか協議する。
また農水省農地開発課と国営農地の地下水の調査資料をもとに研究。戸狩の温泉化について支部懇談会を開き協会員の意見を聞く。
またスキー場と温泉の関連について大町温泉と八方温泉へ視察して調査研究をする。
1989年(平成元年) 観光協会では温泉開発研究委員会を設置する。委員10名で構成、研究の末、株主を募り温泉の新会社設立の案が浮上。
県温泉審議委員や間山温泉の源泉地にも出向いて問題点を勉強する。 尚、市観光課長より戸狩は独自開発が望ましいと云われ揺れ動いたのも事実です。
いよいよ実現に向けて動き出す
1990年(平成2年) 芝浦工大石川洋美先生を招き温泉の有効活用の方法について懇談する。先生は「戸狩は他の観光地の真似をしても駄目だ。戸狩の自然環境をいかしそのままがいい」とアドバイス。
温泉推進委員会では温泉の調査会社を決めるため6社によるヒヤリングと競争入札を行いドリコ(株)と決定した。
戸狩観光(株)と太田観光(株)が合併して戸狩観光開発(株)となる。
地形調査では関係者で柏尾峰から関田山脈を眺め、また信州大学の赤羽先生(地質学)からも助言を頂き「かなり有望」とのお墨付きを頂き不安ではあったが意を強くしてボーリングに挑戦する腹を固めた。
ドリコ(株)の調査結果に基づき打ち合わせをし、掘削位置の決定をする地権者の水野豊宅へお願いに上がって買い上げの了解を得る。
県に対して近隣湯滝温泉と野沢温泉より同意書、市長の意見書(公害不可)を添えて掘削の許可申請する。
掘削事業は合併した戸狩観光開発(株)に決定する。 ドリコ(株)と掘削工事の契約を行う契約金1億円。「万一不湧出でも穴掘の代金だから」と言われた。
風間神官により盛大な開孔式を行い関係者で前途を祈願した。
遂に夢にまで見た温泉の掘削作業始める
1991年(平成3年) 温泉の掘削作業開始は当初動力ではディーゼルの予定が音の公害の懸念や凍結防止の為、電力で24時間操業に変更した。そのため暮れからの予定が2月1日からとなってしまった。
約4ヶ月後の6月3日、待望の天然温泉が地下1,081mから毎分420Lもの大量の湯が自噴しました(41.2度)。技師からは直ぐ「切り傷に良く効く」と言われた。また温泉には3つの「こう」がある。つまり観光・健康・信仰のことである。
県公害衛生研究所へ提出、成分分析を行った結果、アルカリ性単純温泉と認定される。
微黄色を呈し殆ど無味無臭。PH8.8。
早速、日帰り駐車場に仮設の露天風呂を設置。好評であった。
肌すべすべ、何時までも湯冷めしないと今も評判です。
ここに最高の温泉が実現したのです。皆で大切に利用しよう
1992年(平成4年) 戸狩観光開発(株)では基幹施設として共同浴場「あかつきの湯」を開設。続いて蕨野地籍に「望の湯」を。
1994年(平成6年) 観光協会が温泉事業協同組合を設立して各民宿に温泉の供給を行っている。
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