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からす踊り

現代によみがえる300年前の民俗芸能

毎年8月16日、17日のお盆の時期に、戸狩で踊られる「からす踊り」。音頭とりがリードをとって唄う、奥深くウィットに富んだ詩歌と流暢な節まわしに対し、一同は踏む・蹴る・手を叩くといった9つの動作を繰り返しながら踊り、返し唄を唄います。唄は短いながらも、一節ごとに、厳か、軽やか、楽しさ、哀れなどを感じる哲学的要素を含み、この唄と踊りの繰り返しのなかに深遠さと愉楽が感じられ、夜を徹して踊っても不思議と疲れを感じないと言います。このからす踊りは、江戸時代から北信濃?新潟県南部一帯で踊られて来ましたが、明治維新の頃を境に、ここ100年ほどは衰退期に入っていました。しかし、戸狩では平成7(1995)年に「からす踊りを拡げる会」を結成し、平成11(1999)年に復活。平成16(2004)年には飯山市の無形民俗文化財に指定され、毎年お盆の時期に盆踊りとして踊られ、大切に唄い継がれています。

からす踊りの歴史

「からす踊り」は、場所によっては「盆じゃもの(小布施町)」「ノヨサ節(秋山郷)」とも呼ばれている民族芸能のひとつ。長野県北部から新潟県南部一帯に広く分布していますが、元を辿れば戸隠修験道に端を発していると言われています。

戸隠から各地へと広まった「宣澄踊り」

戸隠は奈良時代から修験道場として知られていた場所で、600年ほど前の戦国時代には、修験道の即伝大先達が九州の英彦山から戸隠に巡歴し、行者(山伏)の指導にあたりました。修験道において、修行を終えた若い行者は、導師として教えを広めるために各地へと派遣されます。その際、文字という文化を持たなかった修験道では、布教活動のために唄を使うことが多かったと言われています。導師(音頭とり)が七(上)・七(中)・五(下)の調子で唄うと、続いて一同が、五(下)・七(中)・五(下)と繰り返す。こうして、音に乗せた教えを繰り返すことで布教活動をしていました。音楽的才能に優れていた即伝大先達は、このリズムの構成を守りながら、一人ひとりの行者に違ったメロディーを教えることで、各地に歌詞は一緒でも少しずつ違った曲調が違った唄が伝わるようになりました。

即伝の修験道教義が伝授された戸隠で、修行を積んだひとりに戸隠山修験道の大先達、宣澄法印もいました。戸隠出身の宣澄大先達は、戸隠顕光寺の天台派、真言派との間の法論の最中、応仁2年(1468年)に暗殺されてしまいます。これを偲び、宣澄の霊を鎮めるべく踊られたのが、今日でも戸隠で踊り伝えられている「宣澄(せんちょう)踊り」。野良着姿に手ぬぐいで頬かぶりをした男性が、酒を酌み交わしながら踊る素朴な踊りで、音頭とりと返し唄の繰り返しに加え、9つの足さばきと拍手の動作がつきます。これは、山伏が手で行う「九字の修法」を足で行ったものだと言われており、手を叩き、地を踏む動作は、修験道における善霊を目覚めさせ、悪霊を踏み鎮めるとする「反閉(へんばい)」の考え方にあるのだとか。唄は五七五、あるいは五七七と3つの音節を1まとまりにしているので、七五三踊りともいわれており、16世紀(室町時代・安土桃山時代)中頃に成立したと考えられています。

「宣澄踊り」から「からす踊り」へ

この修験道の考え方や習慣が垣間見られる「宣澄踊り」が、約100年ほどして、徐々に北信濃(飯山・木島平・野沢温泉・栄村など)から南越後(津南・中里・松之山・新井・妙高など)一帯へと広まっていったのが、現在、広く分布する「からす踊り(盆じゃもの)」の原点と考えられています。今から300年前ほど前には、各地で組織された戸隠講のなかで踊り継がれており、宣澄踊りの成立からは約450年の歴史をもつ伝統的民族芸能だと言えます。

飯山市周辺の木島平村や野沢温泉村などにも「からす踊り」は伝承されていますが、唄の歌詞は一緒でもメロディーが違うという特徴があります。これは、即伝大先達が一人ひとりに違うメロディーを教えたことによるもので、からす踊りの非常に興味深いポイントです。また、「からす踊り」という名称は、古くから修験道においてカラスを神の使いとしてきたことから付けられたと考えられています。

このように、広く伝えられて来たからす踊りですが、明治時代に入り、神仏分離令、廃仏毀釈等に始まる一連の宗教政策により、ここ100年ほどは衰退期に入っていました。修験道の活動はほとんど公の場で姿を消し、からす踊りも、場所によっては警察の鋭い監視下にあったり、有識者から野卑な芸能だと冷遇されてきた経緯があります。そのため、からす踊りは、宗教の自由が許される戦後まで、一部の踊り好きな人々の内輪の娯楽としてひっそりと伝えられるのみとなっていました。

戸狩に伝わるからす踊り

子どもの頃から親しんで来たからす踊りを、大勢で楽しく踊りたいと考えた戸狩の鈴木稔さん、清水重右エ門さんを始めとする30人ほどが市の公民館へ集まったのが、1995年のこと。そこで「からす踊りを拡げる会」を結成し、飯山市の小沼に古くから伝わる「さつま踊り」なども学んだりするなかで、1999年に戸狩のからす踊りを復活させました。

即興を織り交ぜた、地域性あふれる唄の次代の担い手を!

歌詞の形は、1節(7音)・2節(7音)・3節(5音)の3節構造で、音頭とりを務める鈴木さんが、1節・2節・3節と唄うと、一同は踊っている人も、そうでない人も、3節・2節・3節と唄を返します(あるいは七七七五の近世の歌謡調も多く見られます)。歌詞は即興を織り交ぜながら唄うことが盛んで、前の項の1節あるいは全体と関連のある唄が続いて唄われる連歌となっており、娯楽的で地域性のあるものが多く、主に農村の日常生活を歌ったものや、人と人とのつきあいの上での嬉しさ、怒り、悲しみなどの気持ちを表したもの。そのなかに、わずかですが、修験道の密教的な思想(大日如来や即身成仏論など)や倫理的、道徳的な事柄の歌詞も見られます。このような歌詞には元唄や正しい歌詞というものはなく、唄いやすくて返しやすく、踊りやすいものが「良いからす踊り」とされているそうです。良い返し唄が帰って来ることで、音頭とりからはより良い唄が次々と生まれます。

唄は2拍子で進みますが、第3節に1小節だけ3拍子があり、音階はレミソラドレの曲調で進み、「ラ」の音で終わります。この曲の構成は守られつつ、「音頭とりの好きな文句で唄い、5分ほどで覚えられる簡単な踊りで、誰でも気軽に楽しめるのがからす踊りの魅力」と鈴木さんは話します。特に決まった衣装も、舞台装置も不要で、老若男女問わず、観光客も踊りに参加することができるのです。

こうして、1999年に復活を遂げたからす踊りは、年々参加者が増え、2004年に飯山市の無形民族文化財に指定されました。今では参加者は毎年200?300人にのぼり、英訳の歌詞もできて、外国人の参加者も見られるようになり、また、戸狩だけではなく、長野市からも「地域の盆踊りを、からす踊りで復活させたい」との相談も受けています。そんなからす踊りの目下の課題は、何十分も唄う音頭とりができる若者の跡継ぎの育成。この戸狩の貴重な文化遺産を末永く伝えて行くべく、若い参加者を募り、次代の担い手を探し求めています。

歌詞の例

今宵のおどり からす踊りを おどらねか
踊りの中に 昔なじみの 声がする
アネ今夜ゆくぞ 雨戸細めに 開けておけ
開けてもおくが 主のマネして よその人
へんな野郎 来たら月の厄だと 云って帰せ
云って帰しても 野郎がヤボだと 悟らない

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